7月12日のtweetsに関するおはなし (お金と矜持)

私は2019-07-12に次のようなツイートをした。

夜中だから激しいことを言うぜ。

お金だけが何より大事、それこそ全てだって人は商売を学べばいいよ。手段を問わなきゃ2,3000万くらいなら普通に行くから。 商売ってそういうもんだし、商人ってそういうもんだし。

でもさ、現実にはクソみたいな商人であふれてはないじゃない? そういうのがいっぱいいるにしたってさ、そこらへんにいる人に声かけたら、今の仕事や状況に不満はわんさとあったって、やることは現実維持、商売の話なんか興味ない人に当たる可能性のほうかずっと高いわけだ

つまり、金が全てとは思ってないわけよ。そういう人は、家族の命だろうが、長年の友情だろうが逡巡もなく換金するわけ。労力も払えば犯罪もするわけよ。 でも、そんな人であふれてはないでしょ。労力を払いたくない、努力したくないなんてクズい理由かもしれないけど、金を拒否する理由はもってる

だからなんだかんだ言っても基本的には、今の立ち位置って、自分にとって許せる、自分を納得させられるラインの中で選んだものなのよ。 収入が少ないとか、その他たくさんの不満はあれど、自分が選んだことには胸を張ろうぜ。

それほど反応はなかったが、割と多くの人が見てくれたようだ。

それで私としては流していたのだが、7月28日に人気tweeterの4.5Pさんが次のようなツイートをした。

同じことに言及している。後に同氏はNoteにまとめている

それで話題になっているので、ちょっと私の発言についてちゃんと説明しておこうと思う。

なお、この記事はいずれ新しいサイトに移される。

発言の経緯

同氏はtweet、あるいはNHKの番組をきっかけにしたとあるが、私はそうではない。当該tweetよりも私は前に発言しているし、テレビも持っていない。 私が当該tweetを行った理由は、そのときtimelineに「もっとお金がほしい」「給料を上げてほしい」といったtweetが溢れていたからだ。

それらのtweetに「言うほどその望みを強く抱いているわけではない」と感じたのだ。

最初は「行動するべきなのではないか」といった主旨で発言しようかと思ったのだが、そうではないなと感じ、前述の発言に至る。

発言の意図と説明

正義と倫理

「お金至上主義の行動」というのはどちらかといえば4.5P氏の記事のほうを読むほうが早いだろう。 ちなみに、timelineで見たところによれば

罪悪感がある一方で、良い経験ができたな、ラッキーだな、と思う自分もいる。半グレの仕事で培ったコミュニケーション能力をいかして、一流企業で働きたい

という発言をした人物は、交際相手を風俗で働かせ、そのお金をだまし取っていたのだそうな。

お金を得るための手段そのものは、実のところ幅広い。捕まらなければいいという考え、あるいは捕まっても構わないという考えならばなおさらである。

実のところ、私にはいくつかの突出した能力があり、犯罪に転用しやすい能力も割と多い。そのため私は恐らく一般の人よりも犯罪に誘われる頻度が高い。 そして、内容を聞く限りだと、その還元を私に行う意思はない。つまり、私を騙すことで希望する犯罪を成立させ、お金を得ようと考えているわけである。

この場合、そう言っている当人はリスクがあまり高くない。「人に犯罪をさせることで自分が富を得る」はその人にとっての倫理であり正義なのだ。

さて、あなたにとってはどうだろう? 「人に犯罪をさせることで自分が富を得る」、は「可能ならそうしたい」だろうか?

実のところ、これは完全に人によって分かれる。共通の見解を持とうとすること自体が不可能といって過言ではないだろう。 それを共通の見解としたものが法律なのではないか、という見方もあるだろうが、実際のところ「法を文面で理解するか、意図で理解するか、逮捕で理解するか」の差に加え、そもそもそれを遵守すべきか否かというレベルで著しい差がある。もしも法が遵守される前提が成り立つのであれば、ブラック企業など稀な存在であるはずだ。

お金は実利的だから、「ほしくない」(もってなくて良いという意味で)という人はかなり少ないだろう。 実際、私も極貧生活をしていた期間は長くて、そのために大事なものを失ったりもしている以上、その重要性はとても感じている。

ちなみに、日本の自殺対策では、「人はお金を理由に自殺したりしない、必ず精神が病んでいる」とされているのだが、私は実際はそうではないことを知っている。例え暮らしていける程度だとしても、貧することはとても苦しいのだ。 経験したことのない人にはわからないかもしれないが、生きていることに凄まじい苦痛を伴う。 苦痛はあまりその別による違いというのはないのだ。

だが、それでも私はお金を得るとき、他者に貢献することを望む。そしてそうでなければならないと考える。 もちろんお金は欲しいが、それが満たされないとき、そのチャンスがあったとしても望まない。

その基準は人によって全く違うわけだが、結局のところ「お金が欲しい」という気持ちよりもネガティブな気持ちが強ければ人は動かない。 というよりも、大幅に欲求が上回らなければ動かない。 人には慣性というものがあるため、「変更する」というのは釣り合うだけでは不十分なのだ。

理由はなんでもいいのだが、倫理にそぐわないものであれ、労力にそぐわないのであれ、あるいは面倒なのであれ、 結局のところ「嫌だ」と思う理由が十分にあればそうしない。

そして、同一の事柄に対して誰もがその理由を持つわけではない。 労力を払うのが嫌だと思う人もいれば平気だと思う人もいる。他者を傷つけることが嫌だと思う人もいれば平気だと思う人もいる。 そういうことだ。

「選択」というものに対して、「変更」を前提に捉える人は多いが、 例え意識しなかったとしても選択はなされており、さらにいえば「認識した時点で形而上で選択している」のだ。

儲け話を聞いて、拒否するのも一笑に付すのも、結局自分の価値観に照らし合わせて「否」という結論に達してそうしている。 儲け話に乗らず、他者を搾取して金を得ることをせず、文句を言いながらも会社勤めをしている人は、自身の価値観における選択の上でそのようにしているのである。

だから、「半グレの儲け理論」で金だけでマウントをとって「馬鹿だ」「負け組だ」と言われようが、胸を張って「俺の選んだ生き方だ」と言ってやればいいのだ。

言葉の前提

この話は賃金が少ない、というtweetsを元にしている。 素直に受け取るのであれば、私は(自分もしない多くのものも含めて)お金を得る方法をある程度知っているわけで、そのようなコメントをするのが適格であろう。

が、それを思いとどまったのはこの件に限らずもっと根本的なことだ。

人は発言するとき、その思考を全て話すわけではない。 だから、言葉にはその人の価値観に基づく様々な葛藤が詰まっている。

例えば人が「死にたい」と言ったとき、別に必ずしも死を至上としているわけではない。 それは、「現実性によらず願いを全て叶えられるとしてもなお死にたいか」という観点で考えればわかりやすい。 表出したのがたった4文字の言葉であったとしても、そこには様々な前提があり、その前提の元に発言されている。 表出したものだけを取って述べるのは、適切とは言えないだろう。

この話題も同根で、「こんな安い賃金で働くなんてやってられない」という言葉の裏には、様々な事情や思慮や葛藤がある。 そして、選べる中で選んでいるがそれに不満、ということなのだ。 だからその人に必要なのは儲け話ではなく、めぐりあいなり、社会的是正なり、とにかく自分の選択したものが良いものへと変わっていくことなのだろう。 もちろん、同じ言葉の下は自分の知らない儲け話を教えてほしいという人だっているだろうが。

具体的な内実は基本的には他者にはわかりえない。よほど親しければ可能性はあるが。 だから、単独の言葉からその意味するところを見出すことは、まぁできないだろう。

人は結局、選択しうるときには、自分の許せる範疇から選んでいる。 許せないものは、結局どうあれ選択しえないのだ。それは「できない」という言葉でなにも間違いではない。

その言葉には、その人の「あり方」が詰まっている。