最近、ありがたいことに、私が憧れだとか、私のようになりたいと言ってもらえる機会が増えてきた。

私は基本的には無名に近い。全く知られていないわけではないにせよ、 誰もが憧れるスーパースターではないし、著名人というわけですらない。

それでもそう言ってもらえるのであれば、少しでも何か渡せればと思う。

おおよそ、この話は中学生から20代半ばの人、あるいはエンジニアやハッカーの卵に向けた言葉になる。 前半は全般の人に向けたものであるが、圧倒的にハッカーとしての私に対する憧憬を口にされることが多いのでChienomiのほうで書かせてもらうことにした。

だが、最初に言っておこう。

「君のその欲しいは、労力を注ぎ、何かを犠牲にしてでもなし得たいものか?」

大概の人はこの時点で脱落する。 欲しがっていても、そのために労力を注ぎ、犠牲を払い、それを目指すのは嫌だという。

それは、欲してすらいない。ただ「おいしいところだけ欲しい」と口を開けて待つだけの愚者だ。

欲さなければ手に入らない。求めなければ届かない。

生きる

強いカードで勝負する

勝負になるように勝負する

「才能なんて関係ない」「才能なんてものはない」なんて言葉をよく耳にする。

だが、はっきり言ってしまおう。才能は前提だ。才能を気にしなくていいというのは、思考停止したただの願望だ。 人生は有限だ。向かないものに浪費するほど時間は有り余っていないはずだ。

私は、才能に救われたことは何度もある。一方で、才能のなさに打ちひしがれたことはその10倍はある。 だから分かる。才能の有無は明確なアドバンテージだ。あまりに開きが大きければ、努力の差を嘲笑うほどに差は開く。

だが、一方で人には適不適というものがある。 なにも才能のない、ディスアドバンテージを抱えていることで勝負する必要は全くないのだ。

まず、己を知ることはなにより大事である。 己を把握していない者は最初からスタートラインにも立っていない。

己を知るにはどうするか? 別に「自分探し」などといってぬるい旅行をすることで見つかるわけではない。 自分は自分の中にある。見つける方法は考えるよりない。これについては後述しよう。

基本的にはその人の中で才能の有無はばらついている。 才能の有無は根本的に「苦痛の多寡」であるとも言える。

あることをするときに感じる苦痛の程度というのは、人によって全く違う。 例えば私は、同じことを繰り返すことが大変苦手で、2回目にして耐え難いほどの、生きることの無意味さに身悶えるほどの苦痛を感じる。 だが一方で、単純な反復はさほど苦ではない、という人もいる。

もうひとつ、才能は「努力がどの程度報われるか」の差でもある。 才能が10倍開いていたら、同じ努力をしても10倍努力したのと同じ効果、という話だ。 人生の時間は有限である上に同時に進む時間の中の相対の話をするならばなおのこととてつもなく大きな要素であることは想像に難くないだろう。

このことから、「努力すると結果が出やすいもの」「努力や実行が苦になりにくいもの」が適していて、「いくら努力しても少しもつかめるように思えないもの」や「ほんと少しするだけでも耐え難いほどの苦痛を感じるもの」は適していない。

適していないことで勝負するのは、単に不利なだけで、やればやるだけ損をすることになる。 生きることにおいて全分野のすべてが必要とされることはありえないので、「使用するものはなるべく適したものが多く、適さないものは少なくなるように選択する」のが基本だ。

適している、というのは自分の中の相対と、他者との相対がある。 自分の中の相対として適しているものは負担が減りやすく、他者との相対として適しているものは強みになりやすい。 自分の中の相対として適しているものはライフスタイルに、他者との相対として適しているものはスキルに反映するようにすれば、自分の良さを発揮しやすいだろう。

自分と人とが違う、という点は常に認識しておくべきだ。 これは存在が違うだけではなく、同じ事実を前にどのような影響を受けるかからして異なる。 「自分が苦しいとき、相手も同じように苦しい」はかなり限られた条件でしか成立しない。 「自分は苦しいが相手はより苦しい」状況なら有利な運べるし、「自分は苦しいが相手はなんともない」ところで勝負しようというのは単なるマゾヒズムだろう。

強みを活かしてピースを揃える

まずは自分の強いところを理解し、どうすればそれを有効に活用できるかを考えることだ。

強みは潜在的には誰しも(少なくとも自身の相対としては)あるのだが、それがイコール強みとして反映されるということにはならない。 強みを強みたらしめるためにはそれを「強みである」と認識し、その上でそれを活かせる状況を作り出さなければならない。 強みであるという理解のないままでは活かしようがないし、理解していたところで発揮できない状況では宝の持ち腐れというものだ。

適材適所と言うように、強みを理解することによって自分がどのような状況に置かれるべきかを知ることができる。 その上で自分の強みを活かせる環境をどうやって成り立たせるか、というところに着目していくわけだ。

基本的には適している者が適していることをするのが望ましい。 結婚についてだって、専業主婦か、共働きかという二択になっていて、かつ専業主婦を悪しとする風潮があったりするのだが、実際は環境維持が得意な男性も普通にいるので、専業主夫というものが普通に成り立つべきであるとも思う。 それは「得意とするもの、できるものがやれば良い」ということである。

ここで重要なのは「適性(appropriateness)の問題であって能力の問題ではない」ということだ。 「その点において能力的に優れているほうがやる」のではなく、リソースや適不適の観点からよりコストが少ないほうがやれば良いということである。 私は維持系の能力も結構高く、特段訓練していない人よりはできるほうだが、非常に不適であるためミスが多く消耗も激しいので「リソース的に回さずに済むなら回さないほうがいい」というものである。

能力のほうは人の状態が不変ならば不変であるものなのだが、適性(appropriateness)のほうは状況などの外部要素によって変動するという点を忘れてはいけない。この判断は動的に行われるべきものである。

ただし、そのような状況は基礎値に対する変動係数であると考えられるため、適性(aptitude)が高い人はリソースがあり、かつその人にリソースを振ることでより大きな意味をもつ要素がなければ適性(appropriateness)も高い場合が多いだろう。

適している、いないの程度は人と物事によって様々だ。だが、なにかを成そうとするとき、その全てに恵まれている人はそうそういない。 だから、なるべく強力なピースが揃っているところからはじめて、完全に必要なピースが掛けているなら、そこを集中的に強化すればしっかり戦える強力な武器になる。

ポーカーで考えてみよう。1組のトランプから任意に選べるのなら、多くの人はスペードのロイヤルストレートフラッシュを組むだろう。 ではカードがたりなかったら?

基本的には「あと一枚そろえば強力な役になる」カードを選ぶだろう。少なくとも、ハイカードになる可能性の高いバラバラの、しかも弱い札を揃えることはしないはずだ。

実のところこれは、「目的のカードが多い」(フラッシュは9枚), 「成功時の役が強い」(ロイヤルストレートフラッシュ), 「失敗時のカードが強い」(フルハウスかフォーカードはスリーカードが残る)の戦略がありえるのだが、これはどういう方針で何を狙うかによる。1

だから、基本的にはなるべく「すでにピースがだいたい揃っているもの」や「ピースを揃えることで強力な武器になり、かつ他の人よりもそのピースを揃えるのが楽なこと」さらには「これを揃えるという発想がそもそも他の人にないもの」が揃うように、強みを伸ばしつつ欠点を埋めていくのが強い。

もちろん、実際は強い手札を目指さず取りやすいカードだけを取るという戦略も存在する。 だが、3と5のツーペアで勝ち続けられるほど人生甘くないし、そもそもそんな考えの者はこの文章をここまで読んでいないだろう。

自分に合った生き方を

君に信念はあるか。いかなる苦痛や理不尽と引き換えようとも構わない君の芯はあるか。

芯のない人間というのは面白くない。 だが、ここでいう「芯がある」とは、決して「良い思いをしたいと口をあけてまつような我儘」のことではない。

実のところ、 自身の主体性を持たず、誰かに尽くすというポリシーだって相当に強い芯なのである 。 芯があるのと我が強いのも違う。2

じゃあ、「これが自分の芯だ」などと決めてしまえるのかというと、それもまた安易な話で、本当に自分をわかっていなければ芯の通しようがないのである。 適不適、特性を知り尽くし、ディスアドバンテージを「できない、仕方ない」などと言うものではなくそれを抑え込む、あるいはカバーする方法も知り自分を使いこなすところまでいってこそ見えてくるものだ。

ちなみに、世界は総量的であり、人生も総量的なのだが、他者に押し付けることで自身が持たなければいけないものを減らして自身の総量を実質的に増やすこともできる…のだが、そんなことをしている時点で自分で生きていないわけで、言語道断であり、それは「生き方」などとは到底言えない。 「自分にあった生き方」というからにはまず自分が生きていなければならない。

だが、その上で自分が人生で使える時間の中で総量的価値が最大になるようにするには自分が苦手なことをなるべくせずに破綻させず、かつ自分が得意なことを多くすることでより多くのことを生み出す必要があるし、実力を発揮するためには自分のコンディションを損なわず実力が発揮できる状態をなるべく保たなければならない。

これを実現するものが、つまり「宇宙的に見て自分の生存した価値が最大になるように生きる手段」が “自分に合った生き方” ということになる。 ただ、これに関しては価値を量的に判断するという行為時代が非常に難しいので3判断に困るかもしれないが。

ディスアドバンテージは徹底的に抑え込む

フィジカル

人にはだいたい、避けて通れないディスアドバンテージがある。

特にフィジカルウィークネスやメンタルウィークネスは、そもそも避ける、そしてコストをかけてケアする、というのが基本になる。

例えば使うと肌がただれるクリームがあるとする。これを使い続けようとする人はいないだろう?

「弱いところはわざわざカバーする」のだ。

一例として言えば、私は単に潔癖症なだけでなく、実際に細菌などに弱く、普通に生活していると肌がひどくただれてしまったりする。4 そのため、使っている石鹸類はかなり洗浄力の高いものだ。そうでないとただれるし出血するしでなかなか大変なことになる。

これは、若干コストがかかる5。 だが、ここにコストをかけなかったらどうなるかは明らかなのでかける。 必要であるにもかかわらず耐えて余計な苦痛をもたらす、というのはバカバカしいにも程がある。

こうしたことにも口出しする人は結構多い。石鹸でも、自然派のものを使えとか6、酸は危険だとか7言ってくる人がいるくらいだ。

また、耳が非常に良いためにノイズにとても弱い。可聴音域が上にも下にも常人の3倍ほどあるのだから仕方ないが、極めて敏感であり、 睡眠を妨げられる可能性も高いし、誰も気にしないような音でも集中力を乱されたり体調を崩したりして非常に辛い。 そのため音楽を聴いていなくても場合によってはイヤフォンをしていたりするし、ノイズキャンセリングヘッドフォンは持っていないため(そしてそこまで音を遮断してしまうのはさすがに危険であると考えているため)家では場合によってはイヤフォンをした上でシューティングレンジ用のイヤマフを併用していたりする。

睡眠を取らないことでパフォーマンス低下の度合いが強い、あるいは健康を害する確率が高いのであれば「睡眠を確保すること」を前提として、これを侵害するものは許容できない選択である、とすれば良い。

耐えることが必要なときはあるし、耐えられることは重要だが、 「必要もない苦痛を生産して耐える」ことは美徳でもなんでもなく、ただ愚かなだけだ。

だが、短絡的ではならない。脚が弱いからといって直ちに歩かないように生活しようというのは愚者の考だ。 「脚が弱い」という大きなディスアドバンテージを低減することが可能なのであれば長い目でみたときにはそのほうが得をする。 ここで重要なのは「苦痛を避ける」のではなく「無駄な苦痛を伴う損失を避ける」のが目的であるということだ。

だから、病気や怪我は早く治したほうがいいし、筋トレやダイエットを始めるなら早くしたほうがいい。 そのほうが損失は減るからだ。

アレルギーや過敏症、その他の「どうしようもない」に近いものは、それが出現しないように徹底したほうが良い。 できることはしっかりやるべきで、そこは妥協すべきところではない。

例えば、生理が辛い女性は早く産婦人科にかかること。

メンタル

メンタルといいつつ実際はもっと広い話なのだが、「特性的な問題」は「自身を支配下に置く」ことと、「問題そのものを低減すること」が両輪だと言っていい。

精神的な問題であれ神経的な問題であれ、そして(私のように)遺伝子的な問題であれ、問題の本質は「十全に自身を支配下に置けない」ことにある。これは以上に苛立たしい事態だ。由々しき事態だと言っても良い。

その改善方法はいろいろあるのだが、いずれにせよ「正しい攻略法で立ち向かわねばならない」のである。 私の持っているデータとしては世間に(あるいは医学的に)言われていることがあまり正しくないことも知っているのだが、根本的には「どうやれば攻略できるか」を考えるのは非常に有効だ。

例えば私は忘れ物がとても多い。忘れ物というか、あらゆることを忘れる。注意力と記憶力に障害があるためだ。 これはトレーニングによってもカバーしている。だから以前より問題としてはずいぶん軽減された。 一方で対処療法も欠かさない。面倒でも現在進行中のこと、考えていること、予定として思っていることをはじめ、なるべく多くのことをメモするようにしているし、これにはTODOリストやアラーム、通知などを活用している。 また、覚えることに関しては記憶にとどめておくことは極めて難しい一方で、状況として覚えたものはむしろよく覚えている方なので、なんらかの状況を伴うようにしている。

どうしても人が(他の動物や植物もだけど)いる環境に長時間、あるいは不意にいることができないためそこをコントロールできるように暮らしてきたし、だから「勤め人になる」という選択肢は基本的に私にはない。この選択肢を避ける時点で他の選択肢を生み出す必要性が生まれ、選択すべきことと、そのためにすべきことが一気に増える要素だ。

ここで言う「メンタル」というくくりはあくまでフィジカルの対語として使っているだけなので、あまり言葉にはとらわれないでほしい。

私の例で言おう。私は一時記憶力がものすごく低いので、思いついたことは大部分を忘れてしまう。 だから、とにかくメモするようにしている。枕元と机の両方にメモがあり、さらに机と机付近にはホワイトボードもある。 これは「速さ」を求めた結果であり、キーボードに手があるのであればコンピュータ上に書いたほうが速いため、ただちにコンピュータでもメモをとれるようにしてある。 また、人の名前を覚えられないため、人に関する情報も詳細にデータベース化している。

人のことを考えやすいため、不快な相手に触れると「気にしない」という選択肢がとれない。人のことを考えやすいというよりも、究明と共感に走ってしまうためというべきかもしれない。 だからひとりが好きかどうか以前の理由として付き合う相手は相当に選んでいる。これは単純な二元論にはなりえず、「ひとりが好きなわけでも、人付き合いができないわけでもないが、不快な相手と付き合ったり信念を曲げて阿るくらいなら孤独でいる」というポリシーなのである。 もちろん、それは私の選択だから、「そのポリシーの結果孤独とならないめぐり合わせになっていない」ことを嘆くことはあっても、このポリシーを侵すような、あるいはそれを人のせいにするような発言は(ネタとしては別として)していない。

これは単に「不快にならないように」という単純な話でもない。「感情に振り回されやすい」「嫌なことは何十年たっても忘れない」「身体的なダメージも大きい」といった自身の特性を踏まえて、他者に負担をかけずにこうした自身を発揮することを損なう要素を低減するために人を遠ざける選択をしているのである。

やるべきことが多すぎるのも苦手で、3つくらいまでならいいのだが、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」となったときに「なにもできなくなる」可能性が高い。 集中できなくなって能率が極端に低下してしまうのだ。だから、そのようなときは気になって仕方ないものの諦めるようにしている。 そして、こういうときはだいたい「気にしない、今日はこれだけやる」と思ったところで気になってしまうものなので、できるだけ「手を動かしていれば終わる」タイプの作業から消化するようにしている(掃除とか、皿洗いとか)。

私の場合は最も大きい部分としては「一定の生活をするのが困難」「一定の状態を維持するのは不可能に近い」「人の近くで過ごすことは場合によっては命に関わる」といった理由(と体が非常に弱いという理由)がある。 これは社会生活を送ることが極めて難しいという結果になる。しかし引きこもっていられるわけでもない(生活上だけではなく、精神的にもとじ込もれない)という制約がかけられる。

解消可能であれば解消したほうが良い、とも言える。 これを受け入れる場合、著しく社会的困難性が上がる。解消に苦痛を伴ったとしてもそれによって解消されるものが非常に大きい。 だが、私の場合はその解消は困難だ。単に極めて高い危険をずっと伴いつづけ、ただその苦痛だけを受け入れることでいっぱいになってしまう。

それでは本末転倒なので、現実的にはそれを拒否するしか選択肢はない。 それは同時にそれを拒否するための困難を受け入れるということとイコールである。 このような場合においては「しっかり決めること」「自分で受け入れること」「覚悟を決めること」がとても大事だ。中途半端はいけない。困難が大きくなるほど、それは命取りになる。その困難をいかに攻略するか、ということに注力していかねばならないからだ。 中学生のときから音楽家、フリーランスの音楽家からビジネス経験のないまま起業、といった経歴もそうした背景がある。

こうしたメンタル面も含めて軽減や解消、あるいは対応は他者に負担をかけないことは非常に重要だが、負担することを積極的に望んでいる人に対してはこの限りではない。むしろそうした人に持たせないほうが問題だと言っていいくらいだ。 力になってくれる人の存在は極めて尊い。そうできる人は恵まれている。

「嫌なことはしない」「好きなことをする」構わないが、ただし…

私が割とそうしているように思われるようなのだけど、よく放言として見るそのような言には基本的に賛同しない。 なぜならば、大概そこに何の責任も持っていないからだ。

まずはっきり言っておくが、選択として「嫌なことだからしない」「好きなことだからしたい」という基準で決定すること自体は悪くない。

ただし、当然に自身で責任を負うならば、である。

先にも言った通り、こと日本で生活することに関して言えば、世の中で言われているように生きるのが圧倒的に楽で、そこから外れることは重大な迫害を伴うようなこともある。つまり、そのような選択基準は、その時点で「それと引き換えにいかなる苦痛を伴ったとしても、いかなる困難を伴ったとしても、それは選択の代償である」ということを前提としていなければならない。

そうでない場合はただの悪意ある我儘であり、邪悪というものである。 自分さえよければいいというのは常に成り立たない。他者を食い物にして生きるくらいなら今すぐ生きることを諦めたほうがいい。

現実から逃げるのも意味がない。 それは他者を犠牲にすることなく戦う意思を持つものだけが口にしていい言葉である。

言い換えれば、 そのために自身がより多くの犠牲を払ったり、苦労したり、理不尽な目にあっても構わないし、どんな結果になってもそれを自分持ちで戦う意思があるのであれば、嫌なことを避けて、好きなことをすれば良いのだ。

「好きなようにする」は誰かになすりつけて生きることではない。

学校に関するお話

ここ数年は聞いていないが、割と

  • 学校に行きたくない
  • 学校に行っていない
  • 勉強したくない

という相談はあった。

この3つはそれぞれ全く別の問題で、それについての考察は色々折りに触れてしているのだけど、消えてしまっているものが多いので、簡単にまとめておこうと思う。

まず重要な点は「学校にいくか行かないかということは人として決定的な差にはなりえない」という点である。 変化はするが、それが何かを決める、という認識は正しくない。それは「行ったか行かなかったか」という時点で確定しているわけではないからだ。

なんといっても学校に行くか行かないかによって時間量が変化するわけではないので、「学校に行って何をするか」「学校に行かずになにをするか」が重要なのであり、学校にいったところで授業に取り組みもせずただ時間がすぎるのを待っているだけであれば行っている意味などないのだ。

社会的要求という点で大きな問題があるのだが、「そんなものは些事である」と男らしく(あるいは女らしく)切り捨てるとするならば、学校に行くことは「何を学ぶか」「どう過ごすか」を大きく制約されることになる。

そのために、まず勉強が得意な人ほど学校にいかなくても良い。 逆ではないか、と思うかもしれないが、勉強が得意というのは成績が良いということではなく、

  • 目標を立てて
  • 実際に実現可能な目標への道筋を設計し
  • 実際にその目標達成に向けて行動する

というのが得意という意味であるため、それが自力でできるのであれば学校で学ぶことができることよりも多くのことを学ぶことができる可能性は高い。 自分の関心事に偏らないようまんべんなく行動を設計し実際に行動するというのはかなり難しいので学校に行ったほうが楽だとは思うが、学校に行くことが損失になる可能性というのは結構高い。 これは、主に煩わしいだけなのに必要のないことを要求される人間関係とか、ただ恭順を示すためだけの形式とか、学術と育成という目的から逸脱した無能な教師とかにあたってしまった場合だ。

ぶっちゃけ、協調性はライフスキルなので必要なものなのだけど、選択性に乏しい非共同体であるにもかかわらず常に協調することを強要するのは単なる同調圧力なので全く意味がない。

選択肢は広くもつべきだ。これは保護者も含め、場合によっては引っ越す、あるいは学校に行かないような可能性も視野に入れて状態をしっかりと検討し、最善策を見出す必要があるということだ。だから、これは簡単な話ではないのだ。

しかし、これは強い意志と弛まぬ努力を前提としたものであり、「勉強したくない」「面倒だから行きたくない」は全く別の話である。 そんな者は学校に行こうが行くまいが落伍するより他にないからだ。 時間は「どう使うか」が問題であるため、そのような者はいくら時間があったところで何かを為しはしない。

勉強できることの尊さはさすがに若いうちに気づくのは難しい。 私の場合は根本的に強制されて、意味がわからない教え方と、努力を反映することを協調性がないとして恭順を演じることを求められる学校というものが大嫌いだったし、その延長として勉強が嫌いだった。そういう人は少なくないだろうし、学生のうちは勉強に対してネガティブな要素が多いのだ。

実際、私は当時(小中学生)でも量子力学や計算機科学に関しては熱心に勉強していたし、根本的に勉強が嫌いというわけではないのだけど、学校の勉強はしたくなかったし、宿題もしなかったし、試験勉強は高校の卒業試験までしたことがなかった。

だが、今になって、自分が特に関心を持っていなかった分野、特に数学や歴史や化学に関しては「ちゃんとやっておけばよかった」とものすごく思っている。だいたいは教え方の問題で、実は学校の教科書で学ぶということ自体は隙がない。

当時だって例えば中学生のときはエレクトーン、作曲、デザイン、イラストレーション、文筆、演劇、自転車をプロとして、あるいはプロを目指すのに準じるレベルでやっていたのだから、そこまで怠惰に過ごしたという認識もないのだが、それでも今考えれば努力を欠いた、あれほどあった時間を有効に使わなかったという気持ちはものすごく強い。

だから全く気づかないだろうけれども、本当に学生のうちの勉強に使える時間は貴重なのだ。 あと、遊べる時に悔いなく遊ぶことも。大人になったら子供のときのような輝きをもって遊ぶことは困難だから。

大学進学に関してはまたちょっと別の問題があり、高校までは多くの人が行くべきものだが、大学に関しては多くの人が行く必要のないものだと思っている。 理由は、「大学に言っても無駄だから」だ。

まず勉強と研究の違いはわかっているだろうか?

勉強というのは既存の知識を獲得する作業だ。 例え言及されていない疑義があったとしてもそれを差し挟む余地がないのが勉強である。 対して研究というのは未知の知識を開拓する作業だ。 これは別の言い方をすると「勉強による獲得対象となっている知識の否定を試みる作業である」とも言える。

大学進学というのは勉強の段階を完遂し、研究の領域を始めるところまで進むものだ。

ところが、私は一般の大学8の学部生で「どんな研究をしているのですか?」と聞いて嬉々として応える人や、卒論に書きたいことが尽きないような人を見たことがない。いないことはないだろうけど。 「そんなの当たり前」と思うかもしれないが、院生だったりすると普通にいるし、そもそも大学というのは研究機関だし研究者に研究のことを聞いたらみんな大きな子供になるものなので、本当に研究したい、研究している人ならそういうものなのだけど、そうならないのであれば大学に通う意味のない人であるということになる。

私から見たら、どれだけ一流の大学を出ているかよりも、どれだけ熱心に研究に取り組んだかのほうがずっと大事だと思うのだけど… もっとも、本気で研究したい人としては研究に必要なものの入手のしやすさや、研究の充実度や予算を考えるとその分野で一流の大学でなければまともに研究できないという結論に達するため、本気で研究したい人は無理してでも一流と呼ばれる大学に行きたがる傾向があるけれども。

これはもっと明らかには、だいたい高校の進路希望なんて大学はステータス別で上下に基づいて決めるだけで、「○○大学に行ってxx教授の元で△△について※※な研究をしたいので○○大学が希望です」みたいに出てこない時点で終わってるとも言える。

大学は勉強するところではないということ自体わかっていない人が多い。

だから、無駄なので大部分の人は行かなくていい。 叶うなら博士にいって、さらに叶うならそのまま研究して過ごしたいと思う人が行けば良いのだ。

私のカードの引き方

私の場合、弱いカードは本当に多い。それは、生き方や振舞いに重大な影響を与える。選択肢を剥奪するレベルだ。 これにどう対応するか…という話しをひとつひとつしていると果てしなく長くなってしまうし、私が抱えている弱いカードはかなりの部分他の人には当てはまらないからあまり参考にならない。

一方で非常に強いカードも多い。だが、こちらはそのほとんどが後付である。 弱いカードが(環境的なことを含めて)あまりに強力すぎて並に過ごしていたらとても生きていけないので、弱いカードを攻略するためにできる限り強いカードを育ててきたから、という感じである。

基本的な性質でいうと、「だいぶ高めのスタート地点」と「桁違いの伸びにくさ」というものが大きい。

初期値が高いから一発勝負の場合には有利だし、ハッタリも効く。これは割と武器になる 経験がなくてもとりあえずハッタリをかましておけばそれを実証する段階ではそれなりに形にできる。 ただし、これは完全に小手先技なので戦術としてすら使えないレベルだ。言ってみれば軽いバフスキル程度にしかならない。

一方伸びにくさ、というのは、「はじめてやった」ときには天才かと騒がれるほどの能力を見せるものの、またたく間に追い抜かれるのである。 もちろん、リードしてスタートしておいて、すぐに追いつかれ、追い越されるというのは精神的なダメージも結構大きい。

どれくらいか、いくつか例をあげよう。

私は将棋がそこそこ強いのだが、実は将棋をはじめてから初段になるまで16年かかった。 幼少からはじめたといってもこれは長い。常にまじめに将棋を取り組んできたのに、というわけでもないのだが、片手間にやっていてもこれは長すぎる。 中学生以上であれば速い人なら数ヶ月程度で初段になってしまう。奨励会に入るレベルの人だと1ヶ月とかだったりする。 一般的には遅めでも2-3年といったところで、16年というのは本当に長い。最後3年ほどはそれなりに熱心に取り組んだので、2級程度の実力がある状態から初段までも3年かかったということになる。

エレクトーンの演奏力のほうも私は1年目で7級相当だった。 7級というと長年やっていても到達できずに諦める人も少なくないレベルである。1年目でこのレベルというのはそれなりに注目もされるし、ジュニア時代に選抜に入っていた理由でもある。 ところが、「毎日少なくとも3時間」という練習をしていながら8年やって5級(も怪しいくらい)相当までしか伸びなかった。 6級からはプログレードなので1級の重みが全く違うのだが、5級というのは結構平凡である。ぶっちゃけ5級ではとてもプロとして活動する気にはならない。田舎で個人的にちょっとエレクトーンを教えている人レベルでしかない。高校までやっていればコンテストに出るレベルの人であれば5級には到達するのが普通だし、実際の内容としても8年やっていて「ほとんど変わっていない」のが現実だ。実際、3年目以降は弾ける曲のレパートリーは増えなかった。 小学生のときは地方トップレベルだったのが高校生のときには平凡未満になっていたことから「伸びの悪さ」はわかるだろう。

これには多分に「練習が悪かった」というのも大きいのだが、実際のところ私は作曲がメインだし、コンテストも作曲に注力しているから、と誤魔化していたが、それは本当に誤魔化しで、単に実力が増えていないので年齢が上がるごとに立場は苦しくなる一方だった、というのが現実である。

私が本質的に強いカードは極めて説明が難しい。 説明しやすいところでは圧倒的空間把握能力なんかもあったりするのだが、それも含めて私が本当に強い部分というのは生きるためには役立つのだが、職業的には 全く 活用できない。 対外的には役に立たない要素も非常に多い。これらを活用することで様々な局面で戦術的有利を築くことはできるのだが、直接に戦略級のものはなく、逆に戦術的有利に頼りすぎて戦略に落ちることも多々あった。

これは、素の状態では強いカードなんてないに等しい。 いってみればゴミだけを取り揃えたデッキにエクゾディアパーツを4枚入れておくようなものである。9

ということは「今は持っていないが伸ばすことで使えそうな部分をカードとして使えるところまで育てる」以外の選択肢がない。 ☆2だらけなので手持ちの☆3を☆6にしようみたいな話である。

ここで意味を持つのが「戦うために使えるカード」と「戦えるようにするために使えるカード」である。

私の場合、「考える」「追求する」「真面目」「執拗」「努力」である。

とにかく徹底していて、深堀りしていくことでどこまでも突き進むことができる、という性質である。 これは、効率こそ悪いが☆2を☆6に変えることのできる黄金のスキルでもある。

考えてもみて欲しい。私の成長速度は本当に1/10とかそんなものなのである。 しかも、他人よりはるかに努力をつぎ込んでも、である。努力量に対する成長率でいうと1/20もあれば有望なほう、という有様だ。

想像してみてほしい。他の人と同程度になるためさえ20倍の努力が必要である。 20倍努力したところで、そのちょっとできる程度の人がだらけて気がむいたらちょっとやる程度の努力を払うだけで簡単に追い抜かれるわけだ。 嫌にならないか?

私はあんまりならない。

普通は嫌になる。だが私は嫌にならない。 他者と比べて劣ることも、他者よりも苦労することも、非常に多くの努力をすることも、それがあまり報われないことも、果てしなく努力しつづけなければならないことも、私は苦にならない。 努力することが好きで、努力によって一歩ずつでも自分が前に進めることが素直に嬉しい。 少しでも前進したと思えればまだまだ努力していられる。

確かに努力に対して報われる量は少ない。 だが、そこまで辛い思いをしても努力が純粋に楽しいと思えるのは「才能」なのだ。 そして、無限に努力し続ければ前人未到の領域にたどりつくことが可能なカードも持っているため、ただただ自分が望むまでに努力と追求を果てしなく、果てしなく、果てしなく続けて今に至る。そうやって強力なカードを並べてきたわけだ。

だが、辛くないわけではない。どれほど辛くてもそうせずにはいられない、ということにすぎない。 ここで意味を持つのが「執拗さ」である。

考えても見て欲しい。将棋で初段になるまで16年である。早ければ数ヶ月で達成できるものに16年である。 追い越されもする。馬鹿にされもする。「俺は3ヶ月で初段になったんだぜ」とこれみよがしに言ってくる人だってたくさんいる。 そして負ける。とにかく負ける。普通に小学校低学年くらいの子にだって(本当に強い子だと)負けたりする。 才能がないのは明らかで、別にこの先に夢見るものがあるわけでもない。そもそも、「将棋大好き!」というわけでもない。ちょっと興味があって楽しめる程度というだけだ。

それでも16年続けて初段に到達する、というのは執念である。 だが、これは私にとって特別ではない。だって、別に「将棋大好き!」というわけではないのだから、必然的に特別な執着心がない。 しかし、私の場合「多少興味がある」程度のものに対してもそれだけのエネルギーとコストを払えるし、投げ出すことなく努力していられる。

相対的にみれば、「報われない状況で苦労しつづけ、努力を重ねる」ことの苦痛が少ない。 10倍の努力が必要でも努力の苦痛が1/10なら払う苦痛の総量は同じである(払う時間と犠牲が全然違うが)。

全体でみれば努力の効果は薄いが「努力し続けること」に特化したカードを揃えてることになり、結果的には戦略は常に「ひたすら真剣に向き合い、ただひたすら努力する」を基調にしたものになる。

一見すると泥臭いだけで誰にでも適用できそうな話に思えるが、案外そうでもない。 実は努力はある程度の領域で頭打ちし無効になる可能性はそれなりに高いため、普通は効率と選択のほうが大事である。 ところが私の場合努力によって前人未到領域に達するためのカードがあるため、莫大なコストを払いつづけることで強力なカードになることに高い期待が持てる(もちろん、それなりに向いているものでなければ達成より前に人生が終わるが)。

「楽しむ」「放棄する」「怠惰に過ごす」といったことが できない という弱いカードも揃えていることから、なおさら他に道はない。 「果てしない努力」というのは結局のところ万能薬として機能することから、戦略的にも戦術的にもこれが核になる。

自分にどういう戦い方ができるのか、どうやって戦えば意味をもたせられるのか、ということがわかっていれば方針を立てるのは簡単だ。 方針を立ててしまえば道が見えているのだから、ただそこを進むだけだ。

エンジニア、ハッカーとして

文系・理系問題 と 学業

そもそも文系・理系と分別すること自体に意味がまるでない。

特に理系が文系をバカにする、という構図があるようだが、最高に愚かしい。

まず、「マウントをとろうとするとき、それをしようする人はそれによって自分の優位を示せると思っている」という前提がある。 そうでなければマウントの取りようがないからだ。

だからここで選択することは、相手に対して何が有効かがわかっていればわざわざそれを選択するし、相手が何かをマウントをとろうとした返しであれば同じカテゴリから返すのだが、そうでなければ「本人の中でプライドの根源となっているもの」である、と言える。

(本人の中での)偉業をなし遂げればそれが自身を代弁するものであるように思えるだろう。 そうでなくても取り組んできた実績などでもいい。

だが、「理系・文系」ということでマウントをとろうとするということは、「自身について科目選択以上に言及すべきものが何もない人間である」ということを示しているのと同じなのである。

これは出身校に関しても同じで、受験勉強以上に努力したものも達成したものもなにもないまま今に至るのだろう。

そのあたりのことでマウントをとろうとする人は関わる価値がないと直ちに判断して構わないだろう。 努力をせず向上心もなく建設的でもない人と関わって得られるものは乏しかろう。

また、コンピュータそのものに関していえば「学校で学ぶ」ことは(専門学校も含めて)意味はほとんどない。 自身に意欲がなく、教えられなければ学ばないのであれば本人の相対としては意味があるかもしれないが、この世界にはコンピュータが大好きで、四六時中学んでいたい人にあふれている。 「研究費をもらってひたすら研究していられれば最高なのに」と思う人も少なくないし、寝食が学習や研究のためのものになっているという人すら珍しくもない。

このような学者のような人間が実務をこなす者の中にたくさんいる分野というのは結構珍しい。 コンピュータサイエンスの論文がなんらかの権威によって認定されることのない形であることの一端でもあるだろう。10

だから、まず「教えてもらわなければ学ぼうとは思わない」という時点で素質がない。 素質があるなら学校で学べることはあまりない。その時間があればコンピュータについてはより多くのことを知ることができるからだ。 望むなら最新の研究にもいくらでも触れることができる。

むしろコンピュータに関して言えば、コンピュータ単独で成り立つことはかなり少ないので、エッジの効いたことをしようとすると他の分野の非常に専門的な知識が求められる。 例えばAI関連なら数学と統計学の知識は不可欠である。これは、ちょっとかじった程度では到底足りず、これらの分野の研究レベルがコンピュータで応用できるレベルとして反映される。

私の場合、コンピュータのスキルを活かすために日本語学と心理学と音声学に関する能力がかなり活用されている。 また、実用的スキルとして文章(国語)スキル、心理術、音楽スキルも積極的に活用している。 コンピュータで勝負する上で私が差をつけられるのはこれらのスキルの高さであり、これは「コンピュータに加えてかじっている」程度ではなく、「これらの分野でも一級の専門家としてやれる自負はある」レベルである。11 そして、そうでなければ勝負にもならない。

そして、これで勝負できたとしても数学に関する知識の不足を大きなハンディキャップとして感じている。

はっきり言おう。 コンピュータを極めたければ、 学問を学ぶことは重要である し、 高いレベルの研究ができる大学で質の高い研究をすることは極めて大きな意味を持つ

「数学なんて何の役に立つのか」なんて言っている者よ、喜ぶがいい。 コンピュータの世界では、学んだことで研究ができない者も、研究を反映させることができない者も三流以下である。存分に役立てるがいい。

ちなみに、私は大学に行ってすらいない。 まぁ、行ったとしても芸大志望だったから、コンピュータサイエンスにはあまり活用できていなかっただろう。 そのことについて悔いる部分は多いが、それはコンピュータサイエンスのためではない。コンピュータサイエンスのために悔いるのは、(高校のときは忙しかったから仕方ないとしても)中学のときに数学に真剣に取り組まなかったことである。

論理的思考力

論理的思考力の話をするときに、まず切り分けなければならない問題がある。

この世の中では「論理的思考力」と言ったときに示しているものが「論理による思考の能力」と「論理っぽい思考をひねりだす能力」の2種類があることだ。

後者は切り捨てて良い。

ではどうしたら論理的思考力が得られるか? それは、論理によって推測、仮定、論証を行っていれば慣れる。

これに求められるのは、「自分の願望は無視すること」と「そこにない情報を加えないこと」と「思ったのと違う結果が出ることを喜ぶこと」である。 それは、科学者として最低限の資質でもある。

基本的なプロセスは「こうなのではないか?」と思ったときに、それを補強する要素を探すのではなく、それを否定可能な要素を洗い出し、否定可能な要素が偽であることを徹底して証明するというものである。補強することはあまり重要ではないし、そもそも否定要素がひとつでも真だった時点でその仮説は成り立たないので、無駄なプロセスになるだけである。

さらに、自分では証明ができたと思っていても、否定可能な要素に見落としがあるだけかもしれない。 誰かが自分が証明したことに対して偽であることを証明した場合、まず自分の証明したことが偽である可能性を考えることが重要だ。 その上で、自分の証明を偽とする証明を偽とする証明がないかを検証する。ここで真であることが証明できるか、あるいは偽であることが証明できないのであれば、自分の証明を偽とする証明は真であるとして自分の証明は偽であったとみなす。

命題が偽になることも、証明が偽になることも無駄ではない。それは前進であり、喜ぶべきものなのだ。

科学者に、研究者に終点はない。常に前進し、さらなる真理に近づくためには、そうした前進を繰り返し、さらなる発見を求めていくより他にないのだ。

プログラミング言語

プログラミング言語に関しては良し悪しというのもあるのだけれど、よく使われる言語に関しては良し悪しよりは好みの問題のほうが大きい。 そして、好みの問題はそもそもとても大きなことだ。

言語は思考に影響する。 プログラミングをやっていれば自然と思考はプログラム的になっていくし、そのプログラム的思考の手順は自分の常用する言語のそれに近づく。

「手に馴染む」という言い方をするが、「自分の思考に近いプログラミング言語を選択する」ということはとても大事だ。 私がRubyを好むのは、それがしっくりくるからである。

儲かるからという理由で言語を選択するのはあまり関心しない。 自分になじまない言語を主とするのはただ人生を損失するだけだし、やむを得ない場合でも業務で使う言語とは別に特選言語を持っている人は多い。

OS

今のWindowsはない、とは思う。 今のWindowsはあまりにも時間を無駄にしすぎる。Active timeを奪ったり、hackerのリズムを崩すのは禁忌であると言っていい。 また、能率的に進めるのを妨げる要素も大きい。

Macはそれよりはマシである。実際、Macを愛用すhackerはかなり多い。

だが、私は最も生産性の高いOSはLinuxだと思う。

FreeBSDも悪くはないが、どちらかという安定した環境で連続的に運用するのには適するが、様々なことにトライするにはちょっとコストが高い。

これはちょっと正確性を欠くかもしれない。正直、Gentooを使うならTrueOSを使っても大して変わらないし、DebianやFedoraを使うよりは楽かもしれないからだ。 これらはそれぞれの理由でコストが高い。

私の場合Arch LinuxやManjaro Linuxがあまりにも快適なので、ちょっと他の選択肢は考えがたい状況にある、というのがひとつ。 そして、Linux固有の機能(アプリケーションの話というよりは、カーネル機能などの話)をかなり使い倒しており、FreeBSDで同じことが出来ない、あるいはやりづらいものが結構あるというのが主な理由だ。 私としてはもしMacかFreeBSD(TrueOS)かで選べといわれたら(かつ、ハードウェアも同程度の性能の範囲でFreeBSD側はPCだとしたら)FreeBSDを選ぶだろう。 だが、実際にはFreeBSDを選べる条件では基本的にはManjaroあるいはArchが選べるので選ぶことはない。

なお、OpenBSDやNetBSDは、あまり一般のデスクトップユースには適さない。 それぞれ適したケースというのはあるのだが、私の場合どっぷりとLinuxの機能を使ってしまっているので、この実際にそうしたケースでもOpenBSDやNetBSDを使おうとしたことはない。

実際のところこのあたりは宗教問題なので普段は「自分にあったものを」というのだが、これを読んでいる人は私からなにかしらヒントを得ようとしている人だろうから、私の判断の話をしよう。

私は、私が使っていることからも明らかなようにManjaro Linuxを使っているし、特にMacを使いたいとは思わないし、Windowsは使いたくない。 最大の理由は時間である。なにをするにしても常に時間は足りない。早く、確実性をもってできることはとても尊いのだ。

hacker的なマインドを

まずもって、物事を突き詰めたくならない人はhackerにはなれないし、エンジニアにも向いていない。

この向き不向きは重大だ。才能が努力で埋められるなどという信念を持っていたとしても、「それが楽しいと感じるか否か」は努力に決定的な差をもたらす。

hackerの性質とは、「仕組みが気になる」「どうなっているのか気になる」「知りたい」「いじってみたい」といった気持ちがコンピュータやテクノロジーに湧くかどうかだ。

また、知的好奇心が豊富かどうかも完全に隔てるものだろう。

あと、事実をありのまま受け入れられない人もhackerには向いていないと思う。 その人が持つ属性(人種、性別、国籍、経歴、所属、知名度その他)が気になってフラットに見られない人はhackerにとって重要な分析と判断に問題があるわけだから、適しているとは言えないだろう。

エンジニア ≠ hacker

今更になってしまうのだが、 私はIT業界人ではない ということをとても強調しておきたい。 今現在そうでないだけでなく、そうだったこともない。

知人にはIT業界に勤めるエンジニアは多いし、私もときどきスカウトされたりするのだが12、それでもIT業界にいたことはない。 根本的に私の指向と違うからだ。

基本的にIT業界はあまり関わりたくないとすら思っている。 だからIT企業からの依頼に対しては非常に消極的だ。 大きな理由はルールを守らない、料金をきちんと払わない、リスペクトがないの3点が理由だが。

IT業界についてはざっとまとめるとこんな感じである(常にあてはまるとは限らないが一般的には)

  • 非常に独特なルールでがちがち。無意味に縛り付けるのが好き
  • 悪性。 労働者に対しても顧客に対しても善良ではなく、付け入る隙をいつも狙っている感じ
  • 派遣と一体。情報技術者資格に派遣の問題が大きく割かれるほど
  • 独自であることや人の技をすごく嫌う。 誰でもできることを求めるし、いつでもかえの効く状態であることを嫌がる求める
  • 極めて保守的。仕事を楽にするツールひとつ導入を嫌がる
  • 形式好き。無意味な会議や儀式や構造をなんとしても維持したがる
  • 未経験者を受け入れないので「とりあえず経験3年と書いておく」の闇
  • そもそも職務経歴書とい存在自体がだいぶ闇
  • 服装や態度に対しては割とゆるいほう。ネクタイをしないところは少ないけれど、革靴を履いているエンジニアはとても少ない

私はこんなものを好まないのでIT業界には入っていないし、あまり関わりたくない。 ITで仕事をしてはいるが、あくまで自前の仕事であり基本的にはIT業界と交わることもない。

IT業界で働きたいという人はここで書いていることは あまり関係ない、というかむしろ邪魔になる可能性が高い

ITエンジニアになりたいのであれば、必要なことは

  • 人を出し抜くことを前提とした強さ
  • 必要ならプライドを捨てて犬になれる根性
  • 睡眠不足や過酷な労働環境にも耐える体力と図太さ

などだ。ITに関する知識などは実際のところ必要ではなく、ただ日々を耐え抜くこと、ただひたすら社会に従順であることこそ重要である。あと、可愛い女性はそんなものすらいらないかもしれない。13

結局のところIT業界で求められるのは社会のone of themであることであって、特徴があることは悪とされてしまうので、本当にITエンジニアになりたいのならひたすらに社会に迎合しながら生きていれば良い。

ただ、幸いにも職務経歴意外の経歴はあまり問われないので、「プライドと体を切り売りすれば泥水をすすりながら生きられる業界」でもある。 人生設計通りにいかなくて挫折するようなことがあったとしても、不安定な中耐え忍んで逆転のチャンスを狙うことができる。 日本ではこれはかなり難しいので大きなメリットである、とはいえる。 ただし、それも相当に困難である上に非常に苦痛であり、しかも並外れた実力を備えた上で作り続け発信しつづける必要があり、「再チャレンジ可能」と言えるほどのものではない。

hackerとして名を挙げたい

私ができていないので難しい要望だ。

とりあえず自分の手に馴染むもの、関心があることをまとめよう。 そして、それらひとつひとつに関わっていって、自分が「オタクになれること」を見定める。

私の場合は私にとってオタク色の強い分野(レタリング/タイポグラフィ, 紙・文房具・画材, 日本語)などは比較的コンピュータには反映しにくく、「コンピュータを便利に使いたい」といった動機から日常系に強い。 また、基本的には「捨てない(溜め込んでいく)」タイプなので、データの取り扱いに興味が湧きやすく、データ解析やファイルシステムに興味を持ったりする。

オタクになれるというのは「努力を苦としない」とnearなので、ものすごく強い。探究心も好奇心も湧きやすいから非常に強い武器だ。

そうした関心のある分野に片っ端から手を付けて、探究心が湧くものを突き詰めていくと良いだろう。

もちろん、戦略的なものもあるにはある。 例えば私のように独自のソフトウェアを作るよりはメジャープロジェクト(例えばLinuxとか、gccとか)に関わるほうが名を挙げやすい。 あれこれと声を大きくすることはあまり好まれず、どちらかといえば黙々とパッチを投げる人のほうが好まれる。 よほど明らかなことでない限りは提案も好まれない…気がする。コミュニティの雰囲気にもよるし、叩かれるだけで歓迎されているのかもしれないが(基本的にhackerたちは容赦がない)。

どうしても独自ソフトウェアを作りたい場合は、それがhackerたちに広く受け入れられるソフトウェアである必要がある。 基本的には小さなプログラムがそのような位置になることはないので、大きなプログラムになることを想定したほうが良いだろう。 知られるようになるところまで行くのは相当大変だが、それがかけがえのないものになれば知られていく。

ちなみに、推奨できる行為ではないのだが、Archを使っているとAURのパッケージメンテナになるのはとても簡単なので、多くの人が必要とするレベルの(つまり世に出すことで自分の評価が下がったり、初期評価として低いところからしない程度の)ソフトウェアができたらPKGBUILDを書いてAURに上げるという手もある。 いいdescriptionを書けばまぁまぁダウンロードされたりするものだ。

間違いなく言えるのは 英語でコミュニケーションができないとよほどのことがない限り無理である 。 英語のリファレンスがほしい、などというチケットを切られたソフトウェアもいくつか知っているが、相当例外的だと言っていいのではないだろうか。 みんなが必要としているソフトウェアで、日本語で書かれているけれども明らかにそれが最善であり、例え言葉がわからなくても使いたいと思わせるもので、それが知られるきっかけができる…ところまでいければ英語なしでもいけたりするが、それでもプロジェクト内に英語ができる人がいないと広がっていかない。

そして、ここで必要とされる英語力は 英会話能力などではなく、hackerとして英語でやりとりする能力であり、8割方読み書きの能力である 。私は英語で日常会話はできないが、フォーラムやMLやその他ではかろうじてやり取りできている。 だから、「英検何級」だとか「TOEICいくつ」だとか「何学何年生程度」だとかいう言い方はできない。 英会話ができる人がhackerが使う英語を理解できる可能性は非常に低いからだ。

ちなみに、hackerたちはだいたい英語でやりとりするが、英語圏の人の割合が結構低いので、英語スラングというのはあんまり使わない。その意味では結構きれいな英語を書く。それに、だいぶめちゃくちゃな英語でもがんばって汲み取ってくれる。 ただし、hackerスラングや独特の言い回しはいっぱい出てくる。

おわりに

この記事を書き始めてから今日までに1ヶ月半以上が経過している。

何を言うべきか、何を伝えるべきか、不足はないか、忘れていることはないか、 誤解を与えるようなことがないか、そうして考えているといつまでも筆を置くことが出来なかった。 (そして相当な量にもなった)

十分ではなかろうが、考えられる限りを書いたつもりではいる。

ほんのわずかでも、あなたにとって意味をもたらすことができたなら幸いである。


  1. ちなみに、私は確率が高いものを選択するため、フラッシュを狙う可能性が高い

  2. ちなみに、私は主張も我も強いほうだが、自分のコアに関わるところ以外は自分に関わりのない人に対して全然といっていいほど求めない。しかも最初から自身が侵害されないギリギリの線まで譲った状態ではじめる。 だから私と関わりの浅い人は、私がものすごく寛容だと思っていたりするし、逆に親しい人は全くそうは思えないだろう。

  3. この手法は私はAI研究の過程である程度確立していたりするのだが、多くの人に受け入れられないだろう。

  4. 家で使っているキーボードを3日洗浄しなければ指がただれるほど弱い。きついのは、普通に半日出かけていると靴下の中で雑菌が繁殖して足が結構ひどくただれたりすることだ。だから洗濯も酸素系漂白剤を多用することになるし、衣類が傷むのはやむなしと考えている。

  5. といってもすごくかかるわけでもない。石鹸類は高いものは本当に高いが、私が使っているのは安いものよりは高いという話でしかないからだ。

  6. ちなみに、天然成分そのままの化粧品なんてとんでもなく危険だし、どの成分も天然に存在するものから抽出しているので結構な笑い話である。

  7. 石鹸がどのように作用するのかを全く理解していない発言なので気にする必要はない。そもそも、髪に至っては「洗浄しないほうが質は高く保ちやすい」のだが、なんのために洗浄するのか分かっていないのだろう。

  8. 流石に音大や芸大で勉強しているような人に関してはもうそこに入っている時点で研究領域に達して選ばれた人たちなのでそんなに意識の低い人は多くない。

  9. わからない人はニコニコ大百科でも読んで欲しい

  10. コンピュータサイエンスの場合、論文は権威ある学術誌がどうこうよりは、ブログに書くほうが一般的である。

  11. 実際私は中学3年生のときからプロ音楽家でもあるし、文筆業をしていたこともある。

  12. さすがにハイスキル系なのでここで言うような扱いとはちょっと異なる。提示時年俸額はだいたい800万円〜といった感じで、1200万円から交渉に応じられるといったところ。最高提示年俸額は1600万円程度だが、結局のところ後述のような働き方が求められるため妥結したことがない。

  13. 実際、私はIT企業に勤めていながらコンピュータに関することはなにもできず、ただ可愛いというだけで人生姫プレイしている人も数名知っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください