自己管理ができず、その責を他者に求める人がいる。

電話でもメールでもIMでもTwitterでも、ブログでもSNSでも同じことだが、誰かが話しかけたせいで時間を費やしたというのは明らかに自身で選択するものであり、そのように時間を費やすことを選んだのは自分自身だね誰かに強制されたわけでもなければ、その義務があるわけでもない。そのように相手に合わせるのがポリシーだというのだとしても、そのようなポリシーを(自分の時間を損失するリスクを含めて)選択したのは自分自身であり、またそれに従ったのもまた自身の選択による。

いずれにせよ、それは自己責任において行われるものだ。それによって時間を損失したり、何かの時間、たとえば食事や睡眠を削られたとしても、それを他者に責任を負えというのは無理がある。

それは、自己決定の自由であり、それを他者に負わせようとするのは責任転嫁にもほどがあるということだ。まして、電話のようにベルによって睡眠を阻害されるなどの理由があるものならまだしも、メールやTwitterの返信などは、無視したところでその影響は基本的に当事者間に限られるのであり、潜在的にもその影響力は小さい。上司・部下の関係などの力関係によってそれが困難な場合もありうるが、そうでないケースならばなおさら、それを他者にどうこういうものではない。

それをとがめるくらいならば自己処理する方法はいくらでもあるにもかかわらず、それを選択しておきながら、その責任を他者に求めるというのは、私からすればあきれるほかない。

さらに、相手にもスタイルやマナー(流儀)、嗜好や生活がある、ということ自体が理解できていない。自己中心的で、自分はこうするからそれに合わせて当然、というのだ。人それぞれであり、相手の流儀との調和のために自分で対応を決めるというのが、人として(大人として)の自己責任なのだが、相手が自分にとって都合のいいように、自分のやり方で自分の希望通りにいくように、しかも要求することなく当然のものとして実行して当然というのだ。これは、傲慢というものだろう。

さらに重大なのは、それと同根となる想像力の欠如だ。相手も人であり、やり方や生活があるということが理解できていないために、相手の生活が自分が見えるものが全てだと思い込んでしまう。そのため、相手の生活は自分だけのもののように捉え、極めて失礼な発言をくりかえしもする。

相手がいかなる配慮をしたか、そのためにどれだけの労を払ったか、どのような想いでそのようにしたか、ということも考えない。相手が何を言っているのかということを理解しようという努力もないのだ。

相手のせいで自分の生活が乱されているというほど自己境界をもっていない、主体性が何のにも関わらず、相手のことを斟酌したり、相手の発言を検討したりはしない。その「自分を持っている自分」がいかに皮相で空疎なものか気付く日はくるのだろうか。

なお、「想い」カテゴリの公開が初めてで、その流儀について述べた原稿がまだ公開されていないので補足しておく。

このカテゴリは、あくまで個人的な主張、思想、感想を述べるものである。ただし、基本的には世の中に広く流通している内容の反復は行わない、というのが原則となっている。また、基本的には私の生活上で生じたことに対する思いを述べているのだが、例えarticleのキッカケが個人であるとしても、個人の人格を対象にしているものではない。以上、承知いただきたい。

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